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 一つの物語が終わると、あたかもそれによって全てが解決してしまったかのように見える。しかし物語って
 いうのは喩えるなら一枚の風景画のようなもので、キャンバスに描かれなかった部分には当然、描かれな
 かった世界が広がっている。“描かれなかったモノ”は“なかったモノ”ではけっしてなくて――僕の気持ち
 とやらもそこに含まれているのだ、多分。
 そう、僕の気持ちの問題は、まるで解決できていなくて。
 今さらになって、それは確かな質量を所有した現実として僕に押し寄せて来ている。
 果たして。
 果たして、雨乃稚彦という人間は、誰のことが好きなのか。
 笑い飛ばしたくなるような、泣いてしまいたくなるような――胸を締めつけて、痛みを伝えてくる不可解な感情。
 小さく息を吐き出して、僕はゆっくりと歩みを進めてゆく。
 校舎を出ておよそ40歩――正門前に佇んでいる、小柄な少女が目に止まる。
 ネコ耳のようなツインテールが特徴的な女の子。
 竹内美月。照陽学園1年A組。園芸部所属。
 にして、僕が今、お付き合いさせていただいている後輩女子。
 この春に、お友達から始めましょうとアプローチして、早二ヶ月半。
 そして七月一週目――晴れて、一応、彼氏彼女の関係になった。
「あっ……」
 彼女は僕に気付くと、その表情を綻ばせる。どこか安堵しているかのようだ。
 僕は、できるかぎり優しく微笑み、軽く手を挙げて応える。
「よっ」
「はい。良かった……雨乃先輩、ひょっとして先に帰っちゃったのかなって思いました」
「いやいや、僕がそんな極悪非道、冥府魔道に堕ちるような真似をするわけなかろう」
「めーふ、まどー?」
「んー、なんでもないなんでもない」
「先輩の単語のチョイスは難解です」
 拗ねるように口を尖らす彼女に僕は笑う。
「はっはっはー。本読めよ、学生さん。最近の僕のお薦めはテッド・チャンだな」
「テッドちゃん? 誰ですか、それ」
「僕も知らないな、テッドちゃん。幻○1に出てくる主人公の親友くらいか」
「○水は2が至高です」
「だよなー!!」
「ですよねー!!」
 なーんて、馬鹿な掛け合い。最近はこんな会話もできるようになってきた。
 だんだんと、それなりに。お互いの距離が、近付いてきているように、思う。
「あ、そうだ。今日の分」
 僕は彼女の頭の上にぽんと手を置いて、よしよしと撫で上げる。
「……うぅ」
 効果音をつけるなら、きゅぅぅぅぅ、って感じ。
 頬を染め、俯いて、小動物のように身体を小さくしてしまう彼女の姿は、素直に可愛いらしい。
 さらっさらの髪の毛はツインテールにしておくにはもったいなく思う。
 10秒くらい撫でて、今日の分は終わり。
「んじゃ、帰ろうか」
 そうして僕らは歩道をゆったりとした歩調で歩きだす。
 美月は赤らんだ顔のまま、しきりに僕が撫でた部分を気にするみたく手を当てている。
「どしたの?」
「いえ、なんだかくすぐったいのが残ってて」
「敏感肌、だよな。お前さんって」
「ええ。あたしとしては不本意極まりないんですけど……」
「んじゃ、撫でるのやめようか? 金輪際」
  素っ気なさを装って、僕は言う。
「そ、それはっ、別に、いいんです。そういうことじゃ、ないです」
 美月は少し慌てた口調で言って、ばつが悪そうにそっぽを向いた。
 そんな彼女が可愛らしくて、僕は「ははは」と笑う。
 心臓を針で刺されるような、小さいながらも鮮烈な痛みは一瞬だけ。
「お前さんって、ストレートのロングとか似合いそう。髪、さらっさらだし」
「そうですか? 先輩がそっちが良いって言うなら、考えてみよっかな」
「いやまぁ、ツインテールも似合ってるけどな」
「どっちですか」
「どっちだろう」
 自分で言っておきながら、小首を傾げざるを得ない。
 それから、僕らは取り留めなく他愛のない話を続けた。
 電車通学の美月が利用している最寄りの駅まで歩いておよそ15分。
 改札の近くで、隣を歩いていた美月が3歩前に出て、くるりとこちらを振り返る。
「それでは、雨乃先輩」
「うん。それじゃ」
 また明日、気をつけてな――そんなやり取りが、いつもなら行われるはずなのに、
 今日に限ってお互いに沈黙。見つめ合うのは一瞬。
 先に視線を回避したのは美月。ほんのりと桜色に染まる頬。伏せられる瞳。
 場の雰囲気が、ふいに変化する。言うなればムード。それっぽい空気。
 僕には、付き合いだした今でも、美月に一度も言っていない言葉がある。
 それを今、このとき、言わなければいけないような――。
 俯いていた美月の顔がやや持ち上がる。不安げな上目遣い。
 揺れる瞳が僕を反射<うつ>す。
 彼女が、僕に求めている。
 反射的に、口が開きかけて、僕は彼女の気持ちに応えようとする。
 しかし言葉は出てこない。僕に言葉は紡げない。
 その一瞬の躊躇が、美月の気分を逃す。
 落胆と失意が彼女の瞳に宿る。
「あ、美月――」
「それでは、また明日」
 僕が伸ばした手を避けるように彼女は僕に背を向け、改札を抜ける。
 小さな背中は振り返ることなく、雑踏の中に消えていった。
 僕は数十秒ほどその場に立ち尽くし、それから天を仰いで溜息をついた。
「しくったな……」
 やれやれと、苦笑い。
 問題を放置して、大問題になったところでようやく重い腰を上げる――それが僕だってことは重々承知して
 いるけれども。いい加減、この性格にも愛想を尽かしてしまいそうだった。

  * * *

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