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    一貫性というのは想像力を欠いた人間の最後の拠り所である。
                                 オスカー・ワイルド


 西に傾いた陽光が室内を赤橙色に染め上げる。
 古書特有の乾いた匂いとコーヒーの香りに包まれた空間。
 ぱらりぱらり、文庫本が捲られていく音がゆったりと時間を刻んでゆく。
 ふと視線を上げて、壁に掛かった時計を見つめる。
 午後六時をちょうど過ぎたくらいだった。
 そろそろかな。ぱたん――と、本を閉じて僕は椅子から立ち上がる。
「ん、お帰りっすか」
 窓際で、僕と同じように読書に励んでいた久延が顔を上げる。
 眼鏡の奥の目はまるで観察者。それでいて愉しげに細められている。
 ニヤニヤ、ニヤニヤ。見透かしたような顔。
 以前の僕ならそんな久延の態度にうんざりしていただろうけど、今では慣れた。
 からかいには軽く肩を竦めて応え、本棚に文庫本を戻しにゆく。
 久延に背を向ける――それは言わば、一瞬の隙を作ってしまった、ということだ。
 間隙を縫うかのようなタイミングで久延は、僕の背に言葉をぶつける。
「竹内さんと、うまくいってないんすかー?」
「……いや、ラブラブだけど?」
「先輩って嘘つくの下手っすよね。壊滅的に」
「これでもうまくなったほうなんだけどな」
「竹内さんに対しては?」
「…………」
 沈黙を選んだのは、反射的に久延の言葉を肯定しようとしていたからかもしれない。否定しようとしていた
 からかもしれない。否定すべきなのに。どうして肯定しようとしていたからだなんて考えてしまうのだろう。
 アマテラス達と共に戦った日々――その劇的なエピソードは、刹那的に僕を変容させた。その変容を成長
 とも、進化とも呼ぶことはできる。けれども、だからといって僕が人間として素晴らしい人格者になったかと
 問われれば否だ。
 大海に真水を一滴垂らしたところで海は海のまま変わらないように。人生におけるたった一つのエピソード
 が、人間一人の価値観全てを変えてしまう――なんてことは、起こりえない。僕はそれを身を以て、絶賛思
 い知らされている最中だ。
 結局のところ、僕は僕のままで、ほとんど変化していないように思う。
 行きつ戻りつ思い乱れて途方に暮れている。
 自分自身に対しても。あの子に対しても。
「はーい、先輩。そんな死にそうな顔をしなーい。笑って笑って」
 久延がぴょんぴょんと跳ねるように僕の傍らまで来て、にっこり笑顔で覗き込んでくる。
「相変わらず屈折してるっすねー雨乃先輩は。だがそれがいいっ♪」
「うーるーせーよっ」
 僕は久延の頬を両手で挟み、そのままグリグリと捏ねくり回す。
「ふぉふぉふぉへ、ふぉーいふひふぉーひっふぇんふぁいふぁふぁっふふぁ?」
「日本語を喋れ」
「ところで、こういう思考実験はいかがっすか?」
 ――と、久延は神妙な顔をして右の人差し指をぴっと立てる。
「ここに、ツインテールでつるぺたの、可愛らしい女の子Aがいるとするっす」
「……つるぺた」
 なんだろう。懐かしい響きだ。最近はめっきり聞かなくなったな。
「そしてこっちには、Aとそっくりな女の子Bがいるっす」
 続いて、左の人差し指を立ててみせる久延。
「さてさて。AとBは生物学的にはまーったく一緒の同一個体っす。ここで問題っ。この二人を区別する方法
 はあるでしょーか。ある場合、区別するために必要な要素は?」
「ある」
 僕は即答する。
「区別するための要素は、経験と記憶だろ」
「ほぼ正解。経験も記憶のカテゴリっすから、突き詰めていけば“記憶”っすね」
 久延は実に愉しそうだ。望み通りの回答を僕がしているからかもしれない。
 いや、多分、パターンからしてそうに違いない。
「はーい。じゃあ先輩、質問っすー」
「なんだよ」
「先輩は、タケちゃんと竹内美月、どちらが好きなんすか?」

 ――クリティカル。そして、追い打ち。

「先輩の最近の悩みって、もっぱらそれに関することなんじゃ、ないっすか?」
 うん? どーなんすか? と。得意げに、腰に手を当て小首を傾げてみせる久延。
 まったく、ぶん殴りたくなる。
 久延を――ではない。ここで結論を出せない自分自身を、だ。
「先輩は今、見た目が同じ個体を区別する方法は記憶だと言ったっす。そうすると、タケミカヅチとしての記憶
 を持たない竹内美月は、別人だということになるっすよね? なのに先輩は今、別人であるはずの竹内美月
 と付き合っている」
「…………」
 僕は、答えない。
「私としては不可解っすねー。神から人間への転生――まぁ、そのへんに関してはいいでしょう。“魂”という
 ものが実在である――これはいまだに私、懐疑的に考えてるっすけど――まぁこれも、いいでしょう。“魂”
 は実在する。輪廻転生は起こりうる。そして、タケミカヅチと竹内美月は、同じ魂の持ち主である。しかし彼
 女――竹内美月にはタケミカヅチの記憶はない。今後、思い出す保証もない。先輩はひょっとして、その可
 能性に賭けて竹内美月と付き合っているんすか?」
「違うよ」
 僕は、はっきりと、否定する。そうじゃない。そうじゃ、ないのだ。
「そう。そうっすよね、そうっすよね。先輩ならそこで絶対に『違う』って言うと思ってたっす。じゃあ何すか?
 魂と魂が惹かれ合うって奴っすか? 二人が愛し合うことは運命だったのです! みたいなロマンチックな
 話っすか? いやー、熱いっすねー」
「……久延」
 声がわずかに震えた。ふつふつと、腹底から込み上げてくる不快感。
「なんすか?」
「そろそろ行かないと、あの子を待たせることになるんだが?」
 いたって冷静に。今までの会話内容なんて何処吹く風といった感じに、なかったことにして。なかったことに
 したくて、僕は坦々と、言葉を紡いだ。
 久延はこれ以上しつこく踏み込んでくることなく、こちらが拍子抜けするくらいに呆気なく、「そうっすね」と頷
 く。夕陽が眼鏡のレンズに反射して、その奥の瞳に宿る感情を探ることはできなかった。

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