愛する――それはお互いに見つめ合うことではなく、
    いっしょに同じ方向を見つめることである
                        アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ


 ギィィィィィ、と。
 中年親父のいびきのような音を立てる扉を開いたその先には、灰色のコンクリートと青い空と赤錆びた
 フェンス――つまりは照陽学園の校舎の屋上。そこに僕はやってきていた。
 視界に入り込んできたのは、陽光を反射させる鮮やかな金髪。
 こちらに背を向けた彼女は無機質な地面に腰を下ろして静かに佇んでいた。
 ようやく見つけることのできた彼女の姿に僕は安心し、つい口許を綻ばせてしまう。
 その感情に、意味なんかないことを、知っていたのに。
 小さく、溜息一つ。僕はゆっくりと彼女に近付いてゆき声を掛ける。
「こんなところで何をしてるんだ?」
「なんじゃお主、妾のことを探していたのか?」
 いつも通りの、からかうような口調。僕の来訪に驚いた様子もない。まるで僕がここに来ることを知って
 いたかのようだ。なんだか見透かされているような気分を味わいつつ、僕は肩を竦めておどけてみせる。
「別に。探してたってわけでもないさ。いつも教室にいるお前さんがいないってのも、なんだか気になるか
 らな。ただ、それだけだ」
 ふいに、僕の胸に生じるわずかな痛み。
『いつも』――そう、『いつも』――だ。僕にとって、彼女が教室にいるという事実は、習慣となっていたのだ。
『いつも』という副詞を自然に使ってしまうほどに。
 しかしそんな日々も、もうじき終わってしまう。
「……隣、いいか?」
「構わぬよ」
 一人分の空間を作って、僕も腰を下ろす。
「で、何をしてたんだ?」
「空を――」
「ん?」
「空を、見ておった。屋上<ここ>からでも、やはり遠いものじゃな」
 しみじみと、何処か苦笑っぽい笑みを刻んで、彼女は何をない宙空へと手を伸ばす。そして握りしめられた
 手の平は当然、何かを掴むことはなくて。
「稚彦に対するときと同じように、普段は見下ろしてばかりじゃからのう。これはこれで中々、新鮮な感覚や
 もしれぬ」
「僕に対するときと同じようにって比喩はいらないだろ」
 がくり、と肩を落とす僕。必然、頭を垂れているようなポーズになってしまっていた。見下されることに快感
 を抱くような特殊な性癖は、もちろん僕にはない。
 抗うように僕は顔を上げ、彼女と同じように青の映える秋空を見上げてみた。
 互いに言葉はなく、沈黙。夏の名残を残した風が、校庭の木々を静かに揺らす。
「このような日々もじきに終わると思うと、少々、心惜しいのう」
「…………」
 ほんの少し切なげな、彼女の表情。僕は胸を締めつけられているような感覚に襲われる。
 ふと視線を傍らに落とせば、地面をついているアマテラスの手。
 0.5人分の距離。それがあまりに遠く感じる。
 掴むことが、できない。
 いずれ失ってしまうとわかっているものを、それでも手にしたいと願う――そこには、果たしてどれほどの
 意味があるのだろうか。
 僕には、分からない。
 でも。だからこそ――
 昼休みの終了5分前を告げるチャイムがなる。
「そろそろ戻るか。ゆくぞ――」
 稚彦、と言って。立ち上がろうとした彼女の手のひらを、僕は優しく掴んだ。
 アマテラスの、驚く気配。
「もう少し、見ていようぜ」
 僕は提案する。あるいは懇願だったのかもしれない。
 何処かの誰かに対する、ほんのささやかな抵抗だったのかもしれない。
 アマテラスは、くすり、と。悪戯っぽく笑う。少女のように、微笑む。
「このたわけが」
 触れ合っていただけの指先はやがて、互いに動き、絡まり合い、強く、握りしめられる。
 互いの体温を確かめ合うかのように、強く、とても強く、そして優しく。
 見つめ合うわけでもなく、僕らは互いに同じ何かを見つめている。
 失うとき、悲しみはあるだろう。痛みもきっとあるだろう。しかし、それだけじゃなく、それ以外の何かが
 あるのだと、信じたい。
 言い訳でもなく妥協でもなく諦観でもなく、前向きに。強がって、生きていきたい。
 いずれ来る、終焉。その日まで。
 気持ちまるごと抱きしめて、絶対に、離さない。